徳島の盆踊り

徳島の盆踊り 

 旧暦の七月十四日、十五日のお盆には県内いたるところで、それぞれ賑やかに盆踊りが行われていたが、昭和十年の時は昨年満州国の帝制が実施され、成果が上がっていた時だけに、その祝いも兼ねて盛大に行われることになった。
 主として商店街と花柳界が中心になっていたようで、私の村で行われていた極くささやかなものとは段違いで、初めて見る徳島の盆踊りはとても印象的であった。
 その頃の街燈は町の角々に立っている程度で、町中はあまり明るくなかったが、お盆の夜は各商店の軒先には大きな提灯が下がり、また見物の子供たちも浴衣姿で、小さい盆提灯を手に手に提げて出るので、町の通りは普段よりずっと明るく、夕闇せまる頃からの通りは一段と活気を帯びて来た。
 やがて笛と太鼓と三味線の音が聞こえて、「よしこの」の歌声が近づいて来ると、この夜ばかりは患者も来ないので、玄関を閉めて二階へ上がり、先生方家族の人たちと一緒に窓を開け放しての見物だった。
 折編み笠に白い手甲、揃いの浴衣に赤いけだし、駒下駄姿の色町の芸者さんたちの三味線の列が行くと、粋な若衆の笛、これに小太鼓が調子を合わせ、続いて陽気な踊りの列が来る。

    
   踊る阿呆に見る阿呆   
         同じ阿呆なら踊らにゃそんそん


三味線の静と踊りの動が交互に連なっている。

        
     新町橋まで行かんか、来い来い

       
        


 各町から新町橋を目ざして来ては左右前後に分かれるので、新町橋に近い場所にあるこの医院の二階の窓からは、わざわざ外へ出て行かなくても、踊りの波を全部見下ろせる一等観覧席であった。
 続々と続く踊りの列の両側で見物していた群集も、つい浮かされて踊りの中へ溶け込んで、夏の夜はいつか町中踊りの渦となって更けて行くのだった。
 現在では観光的になって、すべて華やかな踊り中心になり、三味線を弾く人数が少なくなったのは止むを得ないが、当時はまだ花柳界があった時代なので、三味線を弾く芸者さんが多く、踊りと踊りの間に十人くらいずつ(これを流しと言っていた)三味線が入り、「よしこの」の唄の悠長さと、踊りのテンポの早さに何とも言えない情緒があったのをいまだに忘れられない。
 しかし、翌年の昭和十八年二月に起こった二・二六事件とか、十二年には日華事変へと拡大する中で、何となく不安を感じさせられる世の中となり、阿波踊りもだんだんと自粛への道をたどって行くようであった。

(5月2日にイラストを追加しました)

看護婦見習い時代 5 電話が恐い

電話が恐い
 この医院へ来て一ヶ月くらいは毎日があわただしく過ぎたが、また、すごく長かったようにも感じられた。
 大体の生活のリズムも分かってきたある日、本場さんの自宅から手紙で、お母さんが病気中なので一度帰宅するようにとのことで、土、日曜の二日間、休みを貰って帰郷することとなった。私は全面的に本場さんに頼っていたので、心細く思ったが、本場さんは「すぐ戻ってくるから大丈夫よ」と言って帰郷した。
 何となく不安な気持ちでいるとき、突然電話のベルが鳴り出した。私は電話のかけ方は一応教わっていたが、今まではほとんど本場さんが応対に出ていたので、まだ一度も電話で話したことがなかった。
 その頃の電話機は壁に向かって縦に取り付けられてあり、受話器は横に引っ掛けるようになっていた。鳴りっぱなしにしておくこともできず、恐る恐る受話器を外し、「もしもし」と言うと、「先生はいられますか?」と言うので、「はい居ります」「どうもありがとう」と切れた。

 

 奥様が二階の階段の上から「大西さん、今の電話どこから?」と聞かれたので
 私「わかりません」
 奥様「わかりませんって、あなた相手のお名前を聞かなかったの?」
 私「はい」
 奥様「どんな電話だったの」
 私「男の人の声で、先生いられますかと言いますので、『はい居ります』と言いますと、どうもありがとうと言って切りました」
 奥様「そういう時にはね、どなたでしょうかってお名前を聞いてくださいよ」
 私「はい」
 翌日の日曜日、本場さん早く帰って来てくれればいいのにと思っている時、また、電話のベルが鳴り出した。
 受話器を取ると、「今日は先生いますか」「はい」
 私は昨日のことがあるので「どなたでしょうか」と尋ねると「磯崎ですが、今日お昼頃お伺いしますからと言っておいて下さい」と言って切れた。
 先生に「磯崎さんと言う人からの電話で、お昼頃お伺いするからと伝えておいて下さいとのことでした」
 先生「なに、磯崎?どこの磯崎だ」
 私「分かりません」
 先生「名前だけではわからないではないか。電話では顔が見えないのだから、どちらの磯崎さんですかと、なぜ聞かなかったのだ」とまた失敗。
 そしてお昼頃になって来られたのは患者さんではなく、先生のご実家のお兄様であった。 電話のベルを聞いた瞬間に私の頭の中は真っ白くなり、先生が磯崎という姓であることをコロッと忘却していたのである。
 私はもう電話が恐くなって、どうぞもう電話機よ、鳴らないでおくれと祈るばかりであった。
 夜になってから帰って来た本場さんに、電話で失敗ばかりしたことを話すと、
「誰でも最初はそうなんだから、あまり気にしない方がいいわ」と慰めてくれたので、少し気持ちが楽になった。
 仕事が終わってお寝みのご挨拶の時には、きっと電話のことで叱られるだろうと覚悟していたら、案の定1時間近く、板の廊下に坐らされ、最初はきつい言葉だったが、だんだんと説得調となり、さまざまの例をあげて、電話応対の心得を教えて下さった。
 電話はとっさのことだから、最初は大変だと思うが、普段の言葉遣いも標準語を使うようにして、電話に慣れるようにと言われた。
 世の中で暮らしていくのは、単純なことではなく、いろいろのことを知って、それを身につけなければならないということをしみじみ知らされた。

看護婦見習い時代 4 まずご挨拶から

まずご挨拶から
 一日の仕事が終わって風呂から上がると本場さんが「ご挨拶に行きましょ」と階段を上がって二階の廊下へ座り、先生と奥様の居られる八畳の部屋の襖を開け、「寝ませていただきます」と両手をついて頭を下げたので、私もその通り「寝ませていただきます」と丁寧におじぎをした。
 奥様は「はい、ご苦労さま、おやすみなさい」と仰ったが、先生は「あ、ちょっと待ちなさい」と呼び止めて、「本場君はもうよくわかっとるが、大西君は初めてだから言っておくが、挨拶のことだ。患者さんが来れば『いらっしゃいませ』と言うのは当たり前だが、私をはじめ家族の者と朝起きて初めて会った時は『おはようございます』。また、向こう三軒両隣りの人たちともそのうちに顔なじみになると思うが、朝、昼、晩と顔を合わせた時は、知らん顔をせず、必ず自分の方から挨拶の言葉をかけること。極く当たり前のことだが、だんだんとどうでもよくなってきがちなことだが、人との付き合いは、先ず、挨拶からということを今から頭に入れておくように。ではもう、やすんでよろしい」
 私は挨拶と言うことについてこんなに大切なことだと教えられたことがなかったような気がする。
 そういえばこの家では親子・姉弟の間で、「ありがとう」の言葉もよく交わしていることに気が付いた。


ちょっと、ホームシック
 患者さんの中には勤務の都合で、平日には来院できない人もいるので、日曜日を休診にはできなかった。しかし、子どもさんたちが休みなので、食事の支度はゆっくりで、日曜日は一時間くらい遅く起きてよいことになっていた。
 勤め始めて最初の日曜日の朝十時頃。「ごめん下さい」と玄関で大きな声がするので出てみると、思いがけずそれは昨年入隊した軍服姿の兄であった。兄は元気そうに日焼けした顔をほころばせて、びっくりしている私に右手を上げて敬礼した。
 歩兵第四十三連隊はバスで三十分程のところにあって、今日は休暇で外出を許され出て来たとのことであった。父からの手紙で、私がこの家に勤めたことを知り、寄ってみたそうである。
 大きな話し声がするので、先生は誰だろうと、出て来られた。兄に紹介すると兄は敬礼してから、「菊江の兄です。妹がお世話になります。田舎者ですがどうぞよろしくお願いいたします」
 先生は、「私は磯崎です。まあ上がってゆっくり話をして行って下さい」と言って下さったが、友達と待ち合わせているからと敬礼して、靴音を響かせて帰って行った。
 私はこの四、五日間はただ夢中で過ごし、肉親のことを考える余裕もなかったが、兄の顔を見てから急に、父や母にまだ手紙も出しておらず、その後の様子を何も知らせていないことに気づき、急いで手紙を書き始めた。
 遠ざかっていた我が家が、急になつかしく思い出され、涙ぐみつつ、日々の生活の様子を便箋に書きつづる私であった。

看護婦見習い時代 3 仕事のリズム

仕事のリズム
 朝六時起床、大急ぎで布団を片付ける。なにしろ昼間の待合室が、夜十時過ぎの診療終了後、玄関を閉めると部屋中をクレゾール液で消毒して、私たち看護婦二人の寝室に早変わりするのである。
 先生一家は二階で生活しているので、六時半には奥様が下の台所で朝食の支度をはじめる。本場さんは二階の八畳の座敷の雨戸を開き拭き掃除をして、座卓を出し、下から食器類を運んで並べ、隣室の六畳に寝ている三人の子どもさんに、起床の時間であることを知らせて起こす。私も交代でやらなければならないので、本場さんの手順を見ながら後からついて回り、そのやり方を一つ一つをよく見ていた。
 家族の人たちが食事をしている間に階下の待合室、診察室、薬局室、茶の間等をはたきと箒で埃を掃きだし、土間から玄関を掃いて最後は、裏の水道からバケツに水を汲んで表通りにひしゃくで打ち水をする。
 七時半には長女のお嬢ちゃん(美代子さん)が女学生のセーラー服姿で登校、続いて長男の大きい坊ちゃん(誠さん)と、次男の小さい坊ちゃん(宏ちゃん)が、ランドセル姿で「行って参りまーす」と元気に出かける。
 家中の拭き掃除をして、二階の食器を台所に下ろして洗い、片づけを終わってからが、本場さんと私の朝食の時間である。朝早くからよく身体を動かしたのでご飯がとても美味しい。
 家の中が一段落した八時半頃になって、先生が起床し、洗面タオルを肩にかけて二階から降りて来られる。本場さんがそっと「宵っ張りの朝寝坊なんよ」と私の耳元でささやいた。
 奥様は再び先生だけの朝食を用意される。本場さんは二階の先生の部屋の掃除に行くので、また、私もついて行って見ると、そこは三畳の小さい部屋で、和箪笥と先生専用の机があり、難しそうな医学書がのせられていた。
 これで大体起床してからの仕事の順序が分かったので、早く慣れるようにしなければいけないと思った。
 診察時間は朝九時から夜十時までだが、午前中はわりに暇で、午後から夜になっての方が忙しかった。私は養成所の授業が午後一時から三時まで、一日二時間の勉強なので、お昼の食事が終わると白衣を脱いで着物に着替え、袴をつけて出かけるが、生徒は全員紺色サージの袴に、赤い十字のマークの入ったメダルを結んだ袴の紐にとめた姿が制服とされていた。
 医院を出るときは先生と奥様に「行かせていただきます」と挨拶し、通学証に先生の印を貰い、十五分程の道程を歩いて養成所の門を入り、事務所の窓口に通学証を提出してから教室へ入ることになっていた。
 授業を終えて帰るときは、窓口で下校時の時間を記入して貰い、これを帰院してまた、先生に見せて、「只今帰りました」と挨拶してから袴を白衣に着替えて勤務に就くのであった。
 午後四時過ぎになると、患者がいない限りまた、夕方の掃除に取り掛かり、一人は奥様の夕食の手伝いをして、材料の買出し等もするので、普段よく買う八百屋さんや魚屋さんなどを覚えるために、奥様について行った。しかし、魚屋さんは大抵決まった人が、活きのよい魚を大八車に積んで、朝十時頃町内を巡って売りに来るのが常であった。
 また一日置きに洗う洗濯物は、家族五人分をタライに入れて、洗濯板の上にひろげて固形石鹸をごしごしこすりつけて洗うのだが、自分の家での洗濯は石鹸で洗った後は、前の小川へ持って行って流水で濯いでいたので簡単だったが、ここでは石鹸で洗った後、三回水を取り替えて濯ぎ、両手で絞り上げて干すので、大きなシーツ等は相当の重労働に思われた。
 奥様は洗濯の基本になることをまず教えて下さった。それは、
1、白い物と色物を一緒に水につけない事
2、汚れの少ない物から先に洗う事
3、靴下や足袋類は一番最後に洗う事
 それから干すときの注意としては、パンツ類や腰巻などは、隣の家の人の目にふれないように他の物の陰になるように干すこと、そして「これはね、女としてのたしなみの一つなのよ」と言われた奥様の横顔が、きりっとして見えた。
 私は一日も早くこの家の暮らしに慣れようと一生懸命であった。でも、手の指先にはささくれとひび割れが次々と増えていった。
(4月10日にイラストを追加しました)

看護婦見習い時代 2 回春堂医院 ②

 翌朝、兄が勤めに出る時間に合わせて私も一緒に下宿を出た。村を出るときに母が入れてくれた着替え類の入った「手提げカバン」を一つ持って、昨夜の回春堂医院の敷居をまたいだ。生まれた時から何処へも行ったことのない「井の中の蛙」がおそるおそる町へ出て歩き始めたのである。
 昨夜の看護婦さんが出てきて、「どうぞ、上がって下さい」と言ったので待合室へ上がると「ここがあなたの荷物を入れる場所だから」と、襖を開けてくれたが、そこにもう一部屋があるのかと思ったが、そこは押入れになっていた。私は持ってきたカバンを入れて座っていると、看護婦さんは、「私は本場(ほんば)っていうの。この家へ来てもう三年目になるの」
 私「じゃあ、もう、養成所は卒業したんですか」
 本場「そう、この間卒業したばかりなの。あと一年お礼奉公したらおしまい。いま奥さんにあなたが来たことを報せてくるから待っててね」
 しょんぼりと座っていると、
「いらっしゃい。よく来てくれたわねえ」診察室との境のガラス障子を開けて入って来られたのは、色が白く、丸顔で、ニッコリ優しそうに微笑した上品な三十歳過ぎの女の人だった。先生に比べ少し小柄のように思えた。
「私が磯崎の家内です。よく来てくれましたわねえ」
 私は「はい」と言って、おじぎをするだけで、何と言ったらよいのかわからず両手の指をもじもじしていた。
 ―はじめまして、大西でございます。何にもわかりませんが、どうぞよろしくお願いいたします―
 なんて言葉は、全然頭には浮かんでこないほんとうの井の中の蛙であった。
 奥様はそれと察してか、「都会は初めてなんでしょ。本場さんはもう何でもよく分かっているから、よく聞いて、仲良くやって下さいねえ」
 私「はい」
「家には女学校一年生の長女と、小学五年と二年生の男の子がいるけど、姉弟だと思って、一緒に暮らして下さいね」
 私「はい」
「困ったことがあったら、私を母親だと思って何でも話してちょうだいね」
 私「はい」
 こういう場合の返事の仕方や言葉のやりとりをどうしたらよいのか、第一番に味わった難関で、ただ、「はい、はい」と答えるより他になかった。
 奥様はとても優しい心の人だと、第一印象で心がなごむ思いがした。この時の奥様の言葉の数々が、いつまでも私の胸の中にあたたかく残っていた。
この日から四年間、白い服を着た私の看護婦見習生としての生活がはじまったのであった。

看護婦見習い時代 1 回春堂医院 ①

1、回春堂医院

 昭和十年(1935年)四月十日、私は徳島市医師会附属産婆看護婦養成所の看護婦科第一学年の入所式をおえた。
 次兄が一年前から徳島県庁の学務課に勤めるようになり、徳島城跡の近くに下宿していたので、入所試験の時もその下宿に泊めていただき、下宿のおじさん、おばさんにご厄介になった。
 入所後は寄宿舎から通って勉強するものとばかり思っていた私は、入所式の時、
「生徒は必ず病院か医院に住み込んで実地に看護婦の仕事をしながら養成所へ通って勉強しなければならない」と言うことを知らされた。全く知らなかったことだけに、まだ、勤務先は決まっていなかった。事務係の人から、勤務先は決まっていない人は申し出るようにとのことで、事務所へ行くと、回春堂医院で看護婦を募集しているから、電話で連絡しておくので、夜七時頃その医院へ行くように道順を教えてくれた。

昭和十年頃、回春堂医院のある徳島市中通り町の街並み


 その夜、勤務を終えた次兄は親代わりとして付き添って行ってくれることとなり、徳島駅に程近い回春堂医院を訪れた。隣が歯科医院で看板が出ていたのですぐ分かり、消毒液の臭いが立ち込めた診察室に案内された。
 院長先生は五十歳に近いと思われる年頃で、大きな鼻の下に太い八の字の髭を蓄え、金縁の眼鏡をを光らせ、左右が禿げ上がった額の真ん中には深い二本の立皺があり、少し白髪の混ざった長髪を後ろにとかした一見気難気な、恐い感じで背の高い人であった。
 次兄は初対面のご挨拶の後「両親がお伺いしてお願いすべきですが、実家が遠く、市内に住んでいる自分が代わって参りました。妹をどうぞよろしくお願い申し上げます」と訪問の理由を申し上げた。
 先生は時々私の方を見ながら聞いていたが、「先程養成所の方から電話で連絡がありました。うちは大きな病院と違い特殊な医院なので、患者も少なく看護婦も二人いたのが結婚のため一人やめて、今は一人いるだけで、この度また二人になるわけだが、交代で奥の台所の方も手伝って貰うことになるが、それでもいいですか」と私の方へ聞いてきた。
 私は「はい」と答えた。
 先生は引き続き、住所、氏名、家族関係等を聞いてメモされてから、
「女の子はいつかは嫁に行かなくてはならんので、どうしても家事一般の仕事を身につけておかなくてはなりません。病人の世話だけできて、女としてのことは何も知りませんでは嫁に行く資格がありませんからねえ。その点私の家から実家へ帰って嫁いだ子は、みんなよくやっているらしくてねえ。嫁ぎ先からも感謝されていますよ」
 兄はうなずいて「全くその通りだと思います」
 先生は「それから、看護婦科は二年間で卒業しますが、その後お礼奉公としてですね、一年間は働いて貰うことになっていますので、そのことも承知して置いてください」
 兄「ああ、そうですか」
 先生「やっと仕事にも家にも慣れたと思っていると、卒業したので帰らせて貰いますではねえ、私の方が困りますのでこのことは、最初からそのつもりでいて下さい」と、私の顔を見て、念を押すように言われた。私は黙ったままうなずいた。
 先生「食事は家族と同じ物を食べて貰い、全く家族の一員として暮らして貰いますので、給料の方は月四円です。養成所の月謝が確か二円なので、残り二円が小遣いになります。みんなそれでやっていますがどうでしょうか」
 兄は私のほうを見て、「どうだ?」というようなようすを示したので、私がうなずくと、兄は「はい、結構です」と先生に答えた。
 先生「それでは明日から来て下さい。家族の者にはその時に引き合わせますから」
 隣りの待合室で人声がしていたが、先程取り次いでくれた看護婦さんが顔を出して、先生に患者さんの来訪を告げたので、それを機に、兄と私は、「では、どうぞよろしくお願いいたします」と医院を出た。
 兄の下宿に帰るため、徳島駅からバスに乗ったが、座席に着いた兄は、「花柳病(かりゅうびょう)専門の医者なんだなあ」とつぶやくように言ったので、私は何のことだか分からず、「花やなぎ病専門って書いてあったけんど何の病気やろか」と聞いてみたが、「花やなぎ病とはよかったなあ」と、苦笑いして、「まあ、行ってから勤めている間に分かってくるよ」と言って、そのまま教えてくれなかった。

恩師の言葉

恩師の言葉
 昭和十年三月。小学校高等科二年を卒業するのもあと僅かというある日、担任の教頭先生がいつもの教壇に立ち、
「君たち、もうすぐ卒業だね。卒業したらどうするんじゃ、跡取りの長男、長女は家の仕事を継ぐのが当然だがそうでない者は、この狭い村で一生を終わるよりも、もっと広い処へ出て、自分の可能性を試してみてはどうじゃ。君たちは井の中の蛙なんだよ、世の中はずっとずっと広いんだよ」
 男女合わせて十五、六名の生徒の顔を順々に細い目で見つめながらこう言われた。
 その頃の農家の女の子は、女学校へ上がるのはクラスで一人か二人程度で、大抵は高等科二年を卒業すると、家の手伝いをするか「白地(はくち)」にある裁縫科へ通って、家族全員の和服全部一通りの物が縫えるようになってから、お嫁に行くのが普通とされていた。私のクラスでは高等科へ進まずに六年で卒業して行った子もいたので、高等科二年を卒業する時は、女子は七名だけに減っていた。
 当時の私は、ただ漠然と、ふーちゃんも裁縫科へ行っているから私もやって貰えるかな、などと、のんきに思っていた。しかし、『可能性を試してみてはどうじゃ』と言われた先生の言葉で、はっと何かを呼び起こされたような気がした。
 そしてその日の放課後。教室の掃除の時、先生の机の上を拭いていると、『徳島市医師会附属産婆看護婦養成所入所案内』という長い名前の印刷物が置いてあるのに気が付いた。ちょっとページをめくってみた。いろいろ書いてある最後のページに、願書締め切りは三月十五日となっていた。
 上気した気持ちで家へ帰った私は母にそっと「わたしなあ、看護婦さんの試験受けたらいかんかえ?」と聞いてみた。学校で入所案内を見たことを話すと母は、
「百姓の仕事はせこいきんのう。サト姉さんもせこい思いをして死んでしもうたきん、菊は月給取りさんの所へお嫁に行った方がええと思うとったんじゃ」
「家にいると嫁にくれという話があるきんのう、早うどこぞへ行った方がええかもしれんよ」そして「父っつあんには後で話しとくきん、明日先生によう聞いてみい」
 思いがけず母が乗り気になってくれたので、翌日私は恐る恐る先生に、私でも看護婦養成所の試験が受けられるかどうかを聞いてみた。
 先生はニコニコして「ああ、あの入所案内を見たんか、誰かが見てくれるかなあと思うて置いといたんじゃ」「受けてみるといいよ。あんたならきっと受かると思うから、さあてと、願書締め切りは何時だったかなあ」
「三月十五日となっていました」と私。
「今日が十日じゃきん、急がんといかんなあ。よし、書類の方はわしが準備してやるから、それじゃ今日、池田へ行って写真を撮って貰って来いよ、ちゃんと袴をはいた写真だよ」
 村には写真屋さんがないので、池田まで行かなくてはならない。急いで帰ろうと下駄箱の処へ行くと、姪もちょうど帰るところだったので、池田まで行くことを話すと、一緒に行ってやると言う事で、急いで家に帰り私はちょっといい着物に着替え、袴をつけて姪と一藤からバスに乗り、池田へ急いだ。
 受験用の写真を撮って貰い、家の近くまで歩いて帰ったときはもう夕暮れ時で、自転車で家路を帰る教頭先生とぱったり会った。先生は姪と歩く私を見て、「写真撮って貰ったか?まさか、二人一緒に撮ったんじゃあないだろうなあ」
 私は姪と顔を見合わせて笑いながら「いいえ、私だけです」と言うと、先生も笑いながら「受験写真に二人写っていたら大変だからなあ。それで何時(いつ)出来上がるって言ってた?」
「今は混んでるので、明後日になるって言っていました」と言うと、
「明後日だと十二日じゃないか。それじゃあ、締め切りの十五日までに間に合わないよ。困ったなあ。よし、これから池田まで行って、明日の午後までに必ず出来上がるよう、頼んで来てやる」
 そう言い終わると先生は急いで自転車にまたがり、夕暮れの道を走り去った。
 まだ、電話のない頃で、何事も直接行ってから用を足さなければならなかった。先生は「白地」にあるご自宅の前を素通りして、池田まで八キロの夜路を自転車を走らせて下さり、願書は締め切りに間に合い、私は無事受験することができ、合格証をいただくことができた。
 この時の先生のご厚意と、『自分の可能性を試してみよ』と諭してくださった貴重な一言を今も忘れることはできない。