兄の出征

 兄の出征
 昭和12年7月に起こった盧溝橋事件から、戦域はますます広がり、遂に日中戦争となってしまった。そして、8月18日、徳島連隊最初の動員で兄も上海方面へ出征することとなった。
 父母は遠地でもあるし、隊での面会はもう許されないので、見送りには来ないこととなり、昨年秋に結婚した次兄夫婦と私、知人が二人、それに医院の磯崎先生を加えた六人で見送ることとなった。
 出征隊は徳島駅から出発ということで、8月18日の夜10時頃から交通規制が行われ、道路の両側には太い縄が張られ、警備の巡査が立っていた。
 続々と見送りの人たちが集まり、私たちは11時頃黒山のような人たちに揉まれながら互いに離れないよう駅前近くに陣取り、悲壮な気持ちで胸がドキドキするのを感じていた。
 やがて12時近くなった頃、駅から離れた遠い方角で突然「万歳」の叫び声が聞こえた。そら !!とばかり群集が一斉に身体を前に乗り出したので、縄が一時にピンと張り、警備の巡査が両手を広げて群集を制した。
 高らかな進軍ラッパと軍靴の響きが近づくにつれ、「万歳々々」が連続して起こり、先頭の馬上ゆたかな大隊長の姿が目に入って来た。目の前を通り過ぎていく兵の中に、兄の姿を追い求めていた私たちは、「あっ 、いた!!」と同時に叫んだ。
 兄は夜目にもキラキラ光る汗、口をもぐもぐさせ(氷砂糖を入れていたことを後で聞いた)自転車を押して進んで来た。私は思わず半身を乗り出して「兄さん !!兄さん !!」と叫びながら夢中で右手の日の丸の小旗を振った。兄は気づいたのかどうだか、いたって無表情のまま私の手から日の丸をひったくるように取り、駅構内へすすんで行った。
 気がついてみると私の左手には、勤務の合間を利用して、駅前で道行く女の人たちに一針一針縫いとめて貰って腹巻に仕上げた「千人針」が握りしめられていた。
「あっ、これを兄さんに渡すのを忘れてた」
 あわてて次兄に示すと、次兄は千人針を持ち人垣をかき分けながら大急ぎで駅構内へ入って行った。
 ふっと気が抜けたようにぼんやり立っている時、私を呼ぶ声に振り向くと磯崎先生が、「兄さんが見つかってるから早くこっちへ来なさい」と言って下さったので、並み居る人たちを押しのけ突きのけしながら、やっと兄たちの所へ出られた。
 兄は私たちの顔を一回り見て「やあ、ハハハ!」と大声で笑った。
何か言おうとしていた私は、言葉が喉に詰まったようになって、無理に言うとわめき声になってしまうようなので、黙ったまま背高の兄の顔を見上げるだけであった。だが、それもほんの束の間だった。
 行進曲が響き、汽車に乗り込む時が来た。遅れてならぬ兄は「やあ」と直立の姿勢で敬礼し、先頭に立って大股に歩き去っていた。
 もうどれが兄だかわからない。長蛇のように戦闘帽が続くばかりであった。
 嵐のように「万歳々々!」の喚声が沸き起こり、人山に大波のような動揺が起こった。押し合い揉み合いながら、やっとのことで人の少ない所へ出てほっと呼吸をついた。
 ああ遂に征ってしまった。がっくりしたような気持ちで、もう武運長久を祈るしか方法はないことを思い生温かい涙が頬を流れた。兄たちに見られまいと顔をそむけて歩き、医院の前でみんなと別れて中へ入った。
 松木さんが私の布団も敷いてくれて、自分はスヤスヤと安らかな寝息をたてて眠っていた。
 ちょうどその時隣室の柱時計が、チーン、チーンと二つ鳴った。


(これは兄の物ではなく、昭和18年に出征した主人のための千人針です。)