無事卒業へ

遅刻遅刻の連続

 医院の勤めと自分の勉強にも慣れてだんだんと分かるにつれ、同じ一年生でも年齢は15歳から24、5歳くらいまで巾があり、15歳の私は一番年下であることが分かった。一年以上病院で見習いをしてから養成所へ入った人も多いようであった。
 お盆の興奮も冷めた頃、本場さんの実家から先生の方へたびたび手紙がくるようになった。
 以前、本場さんが休暇を貰って帰ったのは、実は「見合い」だったとのことで、その結婚話が決まって、お礼奉公は半年足らずで終止符を打ち、結局八月末に結婚のため故郷に帰っていった。
 私はいよいよ本格的に一人でやっていかなくてはならなくなった。
 診察室の仕事の方が主となってきたが、朝食の支度や掃除はやらなければならず、養成所へ出かける頃になって患者が来ると、出ることができず遅刻する日が多くなってきた。
 看護婦の教科書は、大筋のことだけの記述が多く、講師の講義を聞きながらノートに取らなければ、ほんとうのくわしい事柄が分からないので、遅刻するとその間のことが全然分からず、また、試験の問題は主として講義の中から出されるので困ることが多かった。
 また、夜10時に診察が終わって器具類の消毒から会計を済ませ、風呂に入って風呂場の掃除を終え、「おやすみ」のご挨拶に行く頃はもう11時を過ぎていて、いざ自分の勉強を始めると眠気が襲ってきて、教科書の上に額を押し付けたまま、朝まで眠ってしまっていたことも度々であった。
 今でも忘れられないのは、一年生の終わりに近い三学期の期末テストの時である。出かけようと袴をつけて準備したところへ患者が入ってきたので仕方なく、前だけの白衣をかけ、先生の治療を手伝い、駆け足で養成所へついたときは、既に1時を15分過ぎていた。
 事務所の窓口へ通学票を渡し、教室入り口のガラス戸を開けて入り、自分の席へ進もうとしたその時、教壇にいた講師が強い声で「待った!!」と言った。仕方なく私は入り口にじっと立っていたが、先生は私を無視したまま5分近く経った。
 黒板には問題が書かれ、教室はしーんとしてみんな答案用紙に向かって解答を書いている。私はいたたまれなくなって、先生のところへ行き、「試験を受けさせてください」と言うと、先生は、「ダメだ!試験のときに遅れてくるなんてもっての外だ。今日の試験は受けられないね」
 私「どうしてでしょうか」
 先生「君が入ってきたときは、始まってから15分以上経っていた。私が黒板に試験問題を書いている間だね、何処かで見ていて、ノート等で調べてから入って来たと思われても仕方ないだろ。君は何処の病院だ?」
 私「磯崎医院です。看護婦は私一人だけなものですから、患者さんを置いて出られませんので遅くなりました」
 先生「ちょっと待っていなさい」と言って、出て行ったが、2、3分後入って来て、
「通学票を出した時すでに遅刻だったようだから、まあ不正をする時間はなかったと思うので、試験は受けてよろしい。しかし、二度と認めないから遅れないように注意しなさい」
 答案用紙を渡されたが、もう、時間は30分以上経過していた。私は悔しさを押し殺して時間内に書けるだけ書いたが、何を書いたか読み返す余裕などはなかった。
 答案用紙を提出して筆記用具を片付けていると、隣りの席に並んでいる小児科病院勤務で私と同姓の方が「ずいぶんひどい先生ねえ」と肩に手を当てて下さった。私は涙がこぼれ落ちそうになったので、「お先に」と言って、唇を噛みしめたまま急いで外へ出た。
 その夜、勤務が終わってから布団に入ったが、一人になって気が緩み、昼間の試験のことが一気によみがえり、『黒板に試験問題を書いている間、どこかで見ていて…』そんなことをする人がいると思うのだろうか。疑わしそうな目で見た講師の顔がうらめしく、悔しさと憤りが込み上げてきて、涙が止まらなかった。


 無事に卒業
 
 昭和12年3月、私は看護婦科二年を無事に終了し、卒業証書を受け取ることができた17歳の春であった。
 今年1年間はお礼奉公の年である。昨年まではあまり心して見物することもできなかった眉山の桜が、この春は一段とあざやかに咲き誇っているように思われ、なんと美しい山なんだろうかと、満開の木の下で晴れやかな気持ちでたたずんだことを覚えている。
 都会の生活にも馴染んで、心にゆとりができてきたのであったろうか。
 この年の4月に、私と同郷の二つ年下の松木さんが看護婦科一年に入学と同時に、この医院に勤務することになった。ぜひ私と同じところで勤めたいと、村から出てきたのだった。とてもほがらかでよく笑う子であった。
 松木さんが大分慣れて来た頃合いを見て、二泊三日の休暇が出たので、故郷を出て以来二年目の帰郷であった。
 父母は「まあ二年も帰って来なかったんじゃのう。身体が大きうなったみたいで、丈夫で何よりだったなあ」
 看護婦卒業証書を早速神棚にお供えして、母は嬉し涙を流して喜んでくれた。
 恩師のお宅へも立ち寄り無事卒業をお知らせしたが、「よう、すっかり見違えたなあ」など、奥様ともども歓迎して下さった。