花柳病とは

花柳病とは

(あまり書きたいことではないが、どうしても書いておかなくてはならないような気持ちにかられて、勇気を出して書くことにした。それは、当時としては人前で口に出して言えない言葉、「同衾」または「交接」、現在では「セックス」産業とか言われて、週刊誌やテレビでは堂々とその場面が映し出され、その言葉が日常会話の中に使われても、別に異常とも思われなくなってきた。しかし、花柳病とはその病菌を持った相手とのセックス行為によって媒介され、一旦、病菌に侵されると、治療をしない限り絶対自然には治らない恐い伝染病であることを言っておきたいためである。1958年(昭和33年)売春防止法が施行されてからも菌は今も生き続けているであろうと思うから)


 花柳病について何の知識もなかった私は、人体の解剖や生理学を学んでいくにつれ、また、毎日治療に訪れる患者を目の前に見ているうちに、大変な病気であることがだんだんと分かってきた。そしてその人たちは表面は立派な紳士であり、会社重役から警察官、学校の先生に至る各職業の人たちで、よほど重病にならない限り、病人とは見えない普通の一般大衆なのであった。
 カルテに記された病名は、淋疾(淋毒性尿道炎)、軟性下疳、梅毒、この三つのいずれかであった。しかし、中にはこれらの菌の出ない単なる尿道炎の人もあったが、これも要注意で、梅毒の場合は潜伏期間三週間なので、その頃再び血液検査を受けて、陰性ならばまず安心となるのであった。
 淋疾の人の訴える病状は、放尿時の疼痛、灼熱感、膿汁の排泄、これらが進むと副睾丸炎を起こし、不妊の原因となる。女子の場合は、子宮内膜炎、腹膜炎を起こし、また、手指を通して菌が目に入れば失明に至る結果となる。
 軟性下疳の場合は、局部の傷がほとんどで、その疼痛の激しさは耐え難い様子で、そけい部淋巴腺炎(よこね)を起こし、これは切開手術を行うよりほか、仕方がなかった。抗生物質などまだなかった時代である。
 梅毒の方は経過が緩慢なのが特徴で、潜伏期は三週間ぐらいと長く、その後、陰部、口唇その他局部が発赤して硬い潰瘍を生じるのが第一期。感染後三ヶ月位から全身の発疹、脱毛、淋巴腺腫脹し、これが第二期症状で、無痛性なのが特徴のようであった。    
三年以上経った第三期の人を見たときは気持ちが悪くなった。鼻は中央が凹み、髪の毛はまだらに抜け、全身に頭のないできものが生じていた。なお進めば梅毒性精神病となり不治の病である。
 当時はドイツ製の「サルバルサン」(俗に六・六と言っていた)注射が特効薬で、これと水銀剤とを交互に注射していたようであった。「六・六(ろくろく)」注射は当時一本七円くらいだったと記憶しているが、私の給料の約二ヶ月分近くであった。
これら花柳病は、接触伝染はもとより、手指、手拭い、衣服、寝具、風呂等をはじめ、キッス、授乳、食器、盃等によって間接的に伝染し、粘膜や皮膚の傷から感染するので、「亡国病」と言われていた。
 病院の看板から「花柳病」と言う字を見なくなったのは何時ごろからだったろう。花柳界で感染する病気だったので、花柳界がなくなった時点からこの名も過去の物となったのだろうが、この病気が全部なくなったとは思えないので、泌尿科の中に含まれているのだろうか。
 そして現在大問題となっているのはエイズである。昔、梅毒の特効薬としてドイツ製の「サルバルサン」があったように、エイズに対しても医学の進歩が目覚しいので、一日も早く特効薬が発見されるよう祈らずにはいられない。


2006-05-12 「徳島の盆踊り」にイラストを追加しました)