新たな道へ

一先ず白衣を脱ぐ

 その年も暮れ、新しい年を迎えたお正月、次兄を訪ねた。
 次兄は県庁の学務課から県立徳島商業学校の書記官として転任になり、住居も学校に近い吉野川土手にも程近い教員用の社宅であった。
 義姉が四月に出産の予定だが、初めての出産だし人手がないので、私に家事を頼みたいし用事のない時は、自分の勉強をしていいから家へ来てはどうか、ということで、昭和十四年四月、私は四年間の白衣生活から離れることとなった。
だが、専検を取ったその後は、赤十字看護婦へ進む決意は緩んでいなかった。
 いざ、この医院を去るとなると、やはり名残り惜しく、特に三人のお子さん方が私によくなつき、「大石さん、もうずっとこの家にいてくれればいいのに…」などと言ってくれると胸にじーんとしてきて、何もわからなかった最初の頃が思い出され、失敗ばかりしてよく叱られたことも、今となっては懐かしい思い出となり、井の中の蛙が今では池の蛙くらいに成長できたことをありがたく、感謝の気持ちで一杯であった。
 ―もう六十年以上のご無沙汰でその後の様子は何も分からないが、私を真ん中にして写した記念写真をじっと眺めていると、あの頃の日々がまぼろしのように浮かんでくる。


邦文タイピストへの道

 昭和十四年四月に次兄夫婦の間に女の子が生まれ、順調に育ち明るい笑い声の中に、私も家事を手伝いながら兄の机を借りて勉強した。
 専検の国家試験は、春の四月と秋の九月の年二回施行されることになっていたので、比較的易しいと思われる「修身」と「家事」の二科目を受験することに決め、官報発表の九月の願書受付に合わせて受験願書を提出した。
 そんなある日、次兄が勤務している徳島商業学校へ兄のお弁当を届けに行った。家から十分程歩いたところだが、校門を入るのは初めてであった。事務所へ入ると兄は来客者と話中だったので、お弁当を手渡すとその人に軽く会釈をしてそのまますぐ帰った。
 その夕方、勤めから帰宅した兄は、「菊枝、タイピスト養成所へ入ってみないか」と言った。あまり突然だったので、私はびっくりして、よく聞いてみると、昼間学校の事務所で兄と話していたのは、徳島市内の文具店の主人で邦文タイピスト養成所所長でもある人で、私を妹だと言うとその人は、「タイプの技術をつけられてはどうですか。今、何処の会社でもタイピストはひっぱりだこで、就職の方は責任をもっていい所へご紹介致しますから」との話だったとのことであった。
「お世辞とは思うが菊枝のことを感じのいい娘さんだって盛んに誉めていたよ」
「誉めておけばきっと来てくれると思ったんじゃないの」
「そうよ、きっと」
 義姉さんと三人で大笑いしたので、眠っていた赤ちゃんが驚いて目を覚まし、泣き出したことを思い出す。
 後で私は考えてみた。このままいつまでも兄の家で居候しているわけにはいかない。目指す日赤看護婦とは全然関係のない職業だが、習っておけば何かの役に立つことだし、一日中机の前に座っていては運動不足にもなるので「よし!」と私はタイピスト養成所へ行ってみようかと思うようになった。
 そして、二、三日後の日曜日に、軍人の兄が外出して来たので、タイピストのことを話すと、「まあ若い時には何でもやれることはやっといた方がいいよ。特に女は嫁に行くと自分のことは何もできなくなるからなあ」と言ってくれたので、いよいよ私は決心した。
 軍人の兄はあらたまった顔で、「あと幾日かで再び出征するので、今日はそのお別れに来たのだが、前の時のように大袈裟にせず、隊の近くの蔵本駅から出発することになるらしい。それで見送りは禁止になっているから来ないように。現地に着けば手紙を出すが、多分、今度は満州方面になると思う。赤ん坊も次に帰る頃にはもう歩いているだろうなあ」
 何となく暗い気持ちになっていた私たちを励ますように、
「ではまた、元気で会おうよ。ハハハ」
 明るい笑い声を残して帰って行った。
 かくして私は、看護婦を中止して二ヵ月後の6月1日から、また、着物に袴をつけた生徒となり、タイピストへの道へと変身していた。