看護婦見習い時代 2 回春堂医院 ②

 翌朝、兄が勤めに出る時間に合わせて私も一緒に下宿を出た。村を出るときに母が入れてくれた着替え類の入った「手提げカバン」を一つ持って、昨夜の回春堂医院の敷居をまたいだ。生まれた時から何処へも行ったことのない「井の中の蛙」がおそるおそる町へ出て歩き始めたのである。
 昨夜の看護婦さんが出てきて、「どうぞ、上がって下さい」と言ったので待合室へ上がると「ここがあなたの荷物を入れる場所だから」と、襖を開けてくれたが、そこにもう一部屋があるのかと思ったが、そこは押入れになっていた。私は持ってきたカバンを入れて座っていると、看護婦さんは、「私は本場(ほんば)っていうの。この家へ来てもう三年目になるの」
 私「じゃあ、もう、養成所は卒業したんですか」
 本場「そう、この間卒業したばかりなの。あと一年お礼奉公したらおしまい。いま奥さんにあなたが来たことを報せてくるから待っててね」
 しょんぼりと座っていると、
「いらっしゃい。よく来てくれたわねえ」診察室との境のガラス障子を開けて入って来られたのは、色が白く、丸顔で、ニッコリ優しそうに微笑した上品な三十歳過ぎの女の人だった。先生に比べ少し小柄のように思えた。
「私が磯崎の家内です。よく来てくれましたわねえ」
 私は「はい」と言って、おじぎをするだけで、何と言ったらよいのかわからず両手の指をもじもじしていた。
 ―はじめまして、大西でございます。何にもわかりませんが、どうぞよろしくお願いいたします―
 なんて言葉は、全然頭には浮かんでこないほんとうの井の中の蛙であった。
 奥様はそれと察してか、「都会は初めてなんでしょ。本場さんはもう何でもよく分かっているから、よく聞いて、仲良くやって下さいねえ」
 私「はい」
「家には女学校一年生の長女と、小学五年と二年生の男の子がいるけど、姉弟だと思って、一緒に暮らして下さいね」
 私「はい」
「困ったことがあったら、私を母親だと思って何でも話してちょうだいね」
 私「はい」
 こういう場合の返事の仕方や言葉のやりとりをどうしたらよいのか、第一番に味わった難関で、ただ、「はい、はい」と答えるより他になかった。
 奥様はとても優しい心の人だと、第一印象で心がなごむ思いがした。この時の奥様の言葉の数々が、いつまでも私の胸の中にあたたかく残っていた。
この日から四年間、白い服を着た私の看護婦見習生としての生活がはじまったのであった。