看護婦見習い時代 1 回春堂医院 ①

1、回春堂医院

 昭和十年(1935年)四月十日、私は徳島市医師会附属産婆看護婦養成所の看護婦科第一学年の入所式をおえた。
 次兄が一年前から徳島県庁の学務課に勤めるようになり、徳島城跡の近くに下宿していたので、入所試験の時もその下宿に泊めていただき、下宿のおじさん、おばさんにご厄介になった。
 入所後は寄宿舎から通って勉強するものとばかり思っていた私は、入所式の時、
「生徒は必ず病院か医院に住み込んで実地に看護婦の仕事をしながら養成所へ通って勉強しなければならない」と言うことを知らされた。全く知らなかったことだけに、まだ、勤務先は決まっていなかった。事務係の人から、勤務先は決まっていない人は申し出るようにとのことで、事務所へ行くと、回春堂医院で看護婦を募集しているから、電話で連絡しておくので、夜七時頃その医院へ行くように道順を教えてくれた。

昭和十年頃、回春堂医院のある徳島市中通り町の街並み


 その夜、勤務を終えた次兄は親代わりとして付き添って行ってくれることとなり、徳島駅に程近い回春堂医院を訪れた。隣が歯科医院で看板が出ていたのですぐ分かり、消毒液の臭いが立ち込めた診察室に案内された。
 院長先生は五十歳に近いと思われる年頃で、大きな鼻の下に太い八の字の髭を蓄え、金縁の眼鏡をを光らせ、左右が禿げ上がった額の真ん中には深い二本の立皺があり、少し白髪の混ざった長髪を後ろにとかした一見気難気な、恐い感じで背の高い人であった。
 次兄は初対面のご挨拶の後「両親がお伺いしてお願いすべきですが、実家が遠く、市内に住んでいる自分が代わって参りました。妹をどうぞよろしくお願い申し上げます」と訪問の理由を申し上げた。
 先生は時々私の方を見ながら聞いていたが、「先程養成所の方から電話で連絡がありました。うちは大きな病院と違い特殊な医院なので、患者も少なく看護婦も二人いたのが結婚のため一人やめて、今は一人いるだけで、この度また二人になるわけだが、交代で奥の台所の方も手伝って貰うことになるが、それでもいいですか」と私の方へ聞いてきた。
 私は「はい」と答えた。
 先生は引き続き、住所、氏名、家族関係等を聞いてメモされてから、
「女の子はいつかは嫁に行かなくてはならんので、どうしても家事一般の仕事を身につけておかなくてはなりません。病人の世話だけできて、女としてのことは何も知りませんでは嫁に行く資格がありませんからねえ。その点私の家から実家へ帰って嫁いだ子は、みんなよくやっているらしくてねえ。嫁ぎ先からも感謝されていますよ」
 兄はうなずいて「全くその通りだと思います」
 先生は「それから、看護婦科は二年間で卒業しますが、その後お礼奉公としてですね、一年間は働いて貰うことになっていますので、そのことも承知して置いてください」
 兄「ああ、そうですか」
 先生「やっと仕事にも家にも慣れたと思っていると、卒業したので帰らせて貰いますではねえ、私の方が困りますのでこのことは、最初からそのつもりでいて下さい」と、私の顔を見て、念を押すように言われた。私は黙ったままうなずいた。
 先生「食事は家族と同じ物を食べて貰い、全く家族の一員として暮らして貰いますので、給料の方は月四円です。養成所の月謝が確か二円なので、残り二円が小遣いになります。みんなそれでやっていますがどうでしょうか」
 兄は私のほうを見て、「どうだ?」というようなようすを示したので、私がうなずくと、兄は「はい、結構です」と先生に答えた。
 先生「それでは明日から来て下さい。家族の者にはその時に引き合わせますから」
 隣りの待合室で人声がしていたが、先程取り次いでくれた看護婦さんが顔を出して、先生に患者さんの来訪を告げたので、それを機に、兄と私は、「では、どうぞよろしくお願いいたします」と医院を出た。
 兄の下宿に帰るため、徳島駅からバスに乗ったが、座席に着いた兄は、「花柳病(かりゅうびょう)専門の医者なんだなあ」とつぶやくように言ったので、私は何のことだか分からず、「花やなぎ病専門って書いてあったけんど何の病気やろか」と聞いてみたが、「花やなぎ病とはよかったなあ」と、苦笑いして、「まあ、行ってから勤めている間に分かってくるよ」と言って、そのまま教えてくれなかった。