恩師の言葉

恩師の言葉
 昭和十年三月。小学校高等科二年を卒業するのもあと僅かというある日、担任の教頭先生がいつもの教壇に立ち、
「君たち、もうすぐ卒業だね。卒業したらどうするんじゃ、跡取りの長男、長女は家の仕事を継ぐのが当然だがそうでない者は、この狭い村で一生を終わるよりも、もっと広い処へ出て、自分の可能性を試してみてはどうじゃ。君たちは井の中の蛙なんだよ、世の中はずっとずっと広いんだよ」
 男女合わせて十五、六名の生徒の顔を順々に細い目で見つめながらこう言われた。
 その頃の農家の女の子は、女学校へ上がるのはクラスで一人か二人程度で、大抵は高等科二年を卒業すると、家の手伝いをするか「白地(はくち)」にある裁縫科へ通って、家族全員の和服全部一通りの物が縫えるようになってから、お嫁に行くのが普通とされていた。私のクラスでは高等科へ進まずに六年で卒業して行った子もいたので、高等科二年を卒業する時は、女子は七名だけに減っていた。
 当時の私は、ただ漠然と、ふーちゃんも裁縫科へ行っているから私もやって貰えるかな、などと、のんきに思っていた。しかし、『可能性を試してみてはどうじゃ』と言われた先生の言葉で、はっと何かを呼び起こされたような気がした。
 そしてその日の放課後。教室の掃除の時、先生の机の上を拭いていると、『徳島市医師会附属産婆看護婦養成所入所案内』という長い名前の印刷物が置いてあるのに気が付いた。ちょっとページをめくってみた。いろいろ書いてある最後のページに、願書締め切りは三月十五日となっていた。
 上気した気持ちで家へ帰った私は母にそっと「わたしなあ、看護婦さんの試験受けたらいかんかえ?」と聞いてみた。学校で入所案内を見たことを話すと母は、
「百姓の仕事はせこいきんのう。サト姉さんもせこい思いをして死んでしもうたきん、菊は月給取りさんの所へお嫁に行った方がええと思うとったんじゃ」
「家にいると嫁にくれという話があるきんのう、早うどこぞへ行った方がええかもしれんよ」そして「父っつあんには後で話しとくきん、明日先生によう聞いてみい」
 思いがけず母が乗り気になってくれたので、翌日私は恐る恐る先生に、私でも看護婦養成所の試験が受けられるかどうかを聞いてみた。
 先生はニコニコして「ああ、あの入所案内を見たんか、誰かが見てくれるかなあと思うて置いといたんじゃ」「受けてみるといいよ。あんたならきっと受かると思うから、さあてと、願書締め切りは何時だったかなあ」
「三月十五日となっていました」と私。
「今日が十日じゃきん、急がんといかんなあ。よし、書類の方はわしが準備してやるから、それじゃ今日、池田へ行って写真を撮って貰って来いよ、ちゃんと袴をはいた写真だよ」
 村には写真屋さんがないので、池田まで行かなくてはならない。急いで帰ろうと下駄箱の処へ行くと、姪もちょうど帰るところだったので、池田まで行くことを話すと、一緒に行ってやると言う事で、急いで家に帰り私はちょっといい着物に着替え、袴をつけて姪と一藤からバスに乗り、池田へ急いだ。
 受験用の写真を撮って貰い、家の近くまで歩いて帰ったときはもう夕暮れ時で、自転車で家路を帰る教頭先生とぱったり会った。先生は姪と歩く私を見て、「写真撮って貰ったか?まさか、二人一緒に撮ったんじゃあないだろうなあ」
 私は姪と顔を見合わせて笑いながら「いいえ、私だけです」と言うと、先生も笑いながら「受験写真に二人写っていたら大変だからなあ。それで何時(いつ)出来上がるって言ってた?」
「今は混んでるので、明後日になるって言っていました」と言うと、
「明後日だと十二日じゃないか。それじゃあ、締め切りの十五日までに間に合わないよ。困ったなあ。よし、これから池田まで行って、明日の午後までに必ず出来上がるよう、頼んで来てやる」
 そう言い終わると先生は急いで自転車にまたがり、夕暮れの道を走り去った。
 まだ、電話のない頃で、何事も直接行ってから用を足さなければならなかった。先生は「白地」にあるご自宅の前を素通りして、池田まで八キロの夜路を自転車を走らせて下さり、願書は締め切りに間に合い、私は無事受験することができ、合格証をいただくことができた。
 この時の先生のご厚意と、『自分の可能性を試してみよ』と諭してくださった貴重な一言を今も忘れることはできない。