満州事変と上海事件

満州事変と上海事変起こる

 1931年(昭和六年九月)満州事変が、翌年には上海事変が勃発していた。
 押し寄せる世界的大恐慌の中で、農村はだんだんと疲弊して、青年たちは誰もが兵隊になることを望む世の中となってきた。
 幼い五、六歳の男の子でも「おれ大きうなったら兵隊さんに行って大将になるんじゃあ」と言って、遊びも戦争ごっこが大はやりだった。
 学校では勇敢に敵の鉄条網を爆破して、わが軍の突破口を作った肉弾三勇士の歌が盛んに歌われ、ニュース映画として見せてくれた。
 また、日本は神国で、天皇は現人神(あらひとがみ)であると信じ込ませ、日本に反対する外国は全て鬼畜の輩(やから)と教え込まれた。なお、英語は敵国の言葉であるから習う必要はないということで、横文字は教えてくれなかった。私たちの世代が一般的に外国語に弱いのは、無理からぬことであろう。


兄の入隊

 大陸では日本軍が大勝を挙げている時で、三男で私のすぐ上の兄は体格がよく、当然徴兵検査には甲種合格は間違いなしと自他共に信じていて、どうせ行くなら一年でも早く軍隊に入った方が出世もそれだけ早くできるわけだからということで、昭和八年、十九歳で志願して合格した。翌年二十歳で徳島歩兵第四十八連隊に入隊することとなった。
 兄が入隊と決まると近所や親類では、この上ない名誉なことと赤い布の幟(のぼり)が贈られ、庭先には十本近くが風にあおられはたはたと音を立ててはためいていた。
 いよいよ入隊の日、小学校の校長先生をはじめ村長さんも率先してお祝いに来られ、たいへんな酒宴が開かれ、万歳万歳の声に送られて、兄が意気揚々と我が家を後にしたのは、昭和九年の五月、よく晴れた暖かい日だった。

冥福を祈って四国遍路へ

kikue85sai2006-03-31

冥福を祈って四国遍路へ
 昭和九年の四月、姉の一周忌を済ませた義兄は、私より一歳年下の小学六年生の長女(私にとっては姪)を連れて、妻の冥福を祈るために四国遍路に出るということで、母と私も同行することとなった。
 当時四国八十八ヶ所全部を歩いて巡るには二ヶ月を要したそうだが、春休みを利用しての遍路なので、香川県の十ヶ所を目標とした。
 春は巡礼の季節で、我が家から見える川向こうの通路には、毎日のように三々五々その姿を見かける頃であった。
 首には「奉納(おさめたてまつる)四国八十八ヶ所」と書いた札(ふだ)ばさみをかけ、弘法大師と修行を共にする意味の「同業二人(どうぎょうににん)」と記したあじろ笠と杖を持った巡礼姿で、四人は遍路の旅に出発した。



 まず最初は一番近い寺で、徳島県香川県の境をなす標高九一一メートルの山頂にある「雲辺寺(うんぺんじ)」の参拝からだった。
 約二時間の山道を登って着いた寺には、白装束の遍路さんが数人、一心にお経を唱えていた。母と義兄も十分間ほど、読経をした後、香川県への石ころの多い山道を下っては登る繰り返しで、次の寺へと急いだが、何という寺だったかは記憶していない。
 夕暮れ迫る頃、瀬戸内海に近い観音寺町に辿り着き、あらかじめ頼んでおいた義兄の親戚の家で第一夜をご厄介になったが、風呂から出たとき、どうしたことか足の力が抜けて、腰から下が棒のようにつっぱった感じで、立つこともできなくなっていた。
 姪も同様で二人は仕方なく、四つんばいで母と義兄の側へ行った。
母は心配して、「今日は歩きすぎたんじゃないかえ。子どもには無理だったよ」
 義兄は「そうだなあ。ざっと八里は歩いたから…それもほとんど山道だったからなあ」「八里も歩いたんか。そんなら足が痛くなる筈だよ」
「だけど、あまりゆっくり歩くと、野宿せにゃならなくなるしなあ。民家がない所ばっかしだったきんなあ」
 母は私が歩けないのを心配して、
「明日はどうだろうなあ」「明日からはもう町の中の寺が多いから、今日のようなことはないわえ」
 こんな会話を聞きながら、私はもうくたくたで、明日もまた歩くのかと思うと、四つんばいではみっともないし、どうしようかなどと思いながら、いつしかぐっすり眠ってしまった。
 翌朝、母にゆり動かされ、思わずはっと起き上がったが、不思議と足の痛みは取れて、部屋の中を歩いてみたが、何の変わりもないので、
「不思議やなあ。足の痛かったのが治った」と言うと、姪も起き出して来て
「あら、私も歩けるぜえ」
 母は「ありがたいなあ、お大師さまのお蔭だよ。よかった。ほんによかった。お前たち、おんぶして歩くわけにゃいかんし、どうしたもんかと思うとったんじゃ。ほんまによかった。さあ、早く出かける支度をしなはれ」
 遍路姿の旅支度のできた私たちを送り出しながら、
「今度は精進料理にしたけど(遍路さんは魚類は食べないことになっていた)次に来る時は美味しい魚をうんとご馳走するきんなあ。それじゃあ、よう気をつけてなあ。またおいでなはれよ、待っとるきんなあ」
 人のいいおじさんとおばさんに見送られて四人は元気に次の札所へと出発した。
 二日目からはゆっくりと街並みを眺めたり、瀬戸内海の潮風に吹かれながら、島々の間を縫うように進む船の姿を見下ろしたりしながら歩いた。
 しかし、乗り物には一切乗らず、歩きばかりなので、夕方になるとやっぱり足の疲れが出るので、早めに町の宿屋に泊まった。
 札所になっている寺の境内には、お接待といってお米、菓子、お茶等を持った団体のおばさんたちが待っていて、遍路にお布施をしてくださるところが多かったので、子供心に嬉しく楽しみの一つであった。
 また、夕方近く歩いていると、家の庭先に立って、
「お遍路はん、どうぞお泊まり下さりませ、お接待を致します」と、普通の民家で一夜の宿を提供してくださる風習があった。これは、遍路をもてなすことにより、弘法大師と共に先祖への供養になるということのようであった。私たちもご好意に甘えて、二回ほど泊めていただき手厚いもてなしを受けたことを覚えている。
 巡拝したお寺と、お接待を受けた人たちには首にかけた札(ふだ)ばさみからお札を一枚ずつ出して差し上げるので、母と二人で五十枚ずつ用意していったお札も残り少なくなっていた。
 こうして一週間の遍路の旅は無事終わった。
 寺でらの仏前で一心にお経を唱えることにより娘を亡くした悲しみもだんだんと薄らいできたのか、巡拝から帰った母は、「いつまで悲しんでいても、サトはもう帰っては来ない。諦めるよりほかしようがないんじゃなあ」「そうじゃよ。それが分かっただけでも、お遍路はんに行って来てよかったよ」
 囲炉裏ばたで父と語る母も、だんだんと元気を取り戻してきたようであった。

若くして逝った姉

若くして逝った姉

昭和八年の二月、旧正月の十六日は薮入りの日だった。
長兄は結婚後四年目になり、もう二人の女の子の父親だった。義姉は長女を歩かせ、次女をおんぶして井ノ久保の実家へ里帰りした。
母は孫二人が出かけて急に静かになった台所で、何かとご馳走を作りながら、泉の奥へ嫁いでいる自分の娘が子ども達を連れて、我が家へ里帰りして来るのを心待ちしていた。
姉は日も落ちようとする夕方頃に、やっと五人の子どもを連れて賑やかに入って来た。待ちかねた母は、「年一回の里帰りじゃないか。もっと早くからよこしてくれればええのに…」と姑に対しての愚痴をこぼしたが、姉は、「早く出ようと思っても何やかやと用事があってなあ」と淋しそうにほほ笑んだ。
上二人は女の子で、三人目が男の子、下二人が女の子で、末っ子は昨年生まれて今、ハイハイの練習中で、一番手の掛かる最中であった。私はお手玉をしたり、おはじき遊びをして久しぶりに楽しく遊んだ。
姉は末の子が生まれた後の肥立ちが悪く、ずっと体調を崩して元気がなく、顔色も悪かった。しかし、いつも周りの人に心配をかけまいと笑顔を絶やさない人柄の姉であった。
母は姉の体を心配して、二、三日子守りをしてやるから休んで、ゆっくりしていくようにすすめたが、上の子の学校もあるのでと、一晩だけ泊まって帰って行った。疲れた後姿を残して帰って行ったこの時が、姉の最後の里帰りとなってしまったのであった。
姉の家では、嫁はどんなに体調が悪い時でも、家族より早く起きて朝食の仕度から、牛の飼料を作り、夜は家族より遅くまで夜なべ仕事を済ませてから床につくのが習慣だったらしく、力尽きて姉が倒れたのは三月の終わり頃だったようだ。
四月に入って間もなくの朝早く、姉の姑が駆け込んできて、「サトがせこそう(苦しそう)だから直ぐに来て見てくれまいか」と言うことで、父母と兄は大急ぎで駆け出して行った。
一時間ほど経ってから、泣き腫らした顔で母はしょんぼり」として帰り、「菊江、サト姉さんは死んでしもた。お前も行ってお別れして来いよ。今日は学校も休め」
やっとそれだけ言った母は、台所の「おくど」の前にしゃがみ込み、声をころしてむせび泣いていた。
母がこんなに悲しそうに泣くのを見たのは生まれてはじめてのことであった。
私が生まれた時は既に父母の膝元を離れて、十七歳で嫁ぎ、きびしい姑や夫によく仕え、苦労が多かったことなど一言も口に出さず、いつも優しいほほ笑みを絶やさなかった姉。五人の子どもがさぞ心残りであったろうに。
数え年三十二歳の若さでこの世を去った姉を想う時、せつないものが胸いっぱいにこみ上げてくる。

一泊二日の修学旅行

一泊二日の修学旅行
 昭和七年四月、小学六年生になった私は、香川県屋島栗林公園へ一泊二日の修学旅行に出かけることになった。行かない子もあって、男女合わせて二十名くらいだった。
 朝早く、土讃線三縄駅まで三キロ程の道を列んで歩き、高松行きの汽車に乗ったが、汽車に乗るのは初めての子も多かったので、もうそのはしゃぎようは大変なものだった。引率の先生が「君たち、修学旅行の感想を綴り方(作文)に書いて貰うから、見たことや、聞いたことなどよく覚えとけよ」と言ったので、みんな顔を見合わせ、「トンネル幾つあるのかな」「一番長いのは何分くらいかな」等と、手帳を取り出してメモをしている子もいた。
男の子は新しい詰襟の学生服で、女の子はみんなセルの着物(ウール地)に袴をつけていた。 その頃は祝祭日とかあらたまった時には、女子は必ず袴をつけて登校することになっていた。私は最初エンジ色の袴だったが、身長が伸びて袴が短くなったので、修学旅行には水色の純毛で新調してくれたので、ちょっと大人っぽくなったみたいであった。これは次兄が池田中学の庶務係として就職していたので、そのお給料の一部で私にプレゼントしてくれた物だった。
 一日目は屋島を見物して瀬戸内海の島々を眺めたりした後、旅館に泊まったが、他家に泊まるのは生まれて初めてのことで、多少の不安はあったが友だちと一緒なので、淋しさはなかった。
 翌日は栗林公園を見物することになっていたが、朝起きた時から体がだるく、顔がほてって熱がありそうだった。でも、一人だけ置いて行かれては大変と、我慢してみんなと一緒に公園内を見て回ったが、その時の様子がどうだったか全然記憶にはない。とにかく帰りの汽車で三縄駅に下車してから、我が家まで帰る三キロの道程をとても遠く感じて、やっとたどり着いたことを覚えている。

花嫁さんは勝手口からご入来

花嫁さんは勝手口からご入来
 電燈が入った翌年、長兄は徴兵検査も終わったことだし、そろそろお嫁さんを貰っては、との話が持ち上がっていたようであった。
 当時、跡継ぎの長男は徴兵検査を境にして甲種合格になった人は、二年間の兵役を終えて帰った時点で結婚する人が多かったが、長兄は乙種合格だったとのことで、兵隊には行かなくて済んだ。
 泉の奥へ嫁いでいる姉の夫の従姉妹で、井ノ久保という所の家に、とてもいい娘さんがいるからとのことで、話はどんどんまとまったらしい。大抵、本人同士の意志は余り重視されず、回りの人たちが相談して決めてしまうのが一般的な風潮で、兄の場合も例外でなかった。
 ある日の夕暮れ時、角樽(つのだる)を一対担いだ人を先頭に、たくさんの荷物に続いて花嫁さんが静かに歩いて来た。この行列は四キロほど離れた山の中腹にある井ノ久保の村から坂道を歩いて下って来たのである。
 近所の人たちの見守る中を、花嫁さんは角隠しをして、きれいな裾模様の着物を着てお仲人さんのおばさんに手を引かれ、お勝手口から入って来た。驚いている私の目の前で、金だらいに湯を入れて待ちかまえていた隣りのおばさんは、花嫁さんのたびを脱がせて足を洗い座敷へ案内した。私は汚れてもいない足をどうしてわざわざ洗うのか不思議だったが、お嫁さんはこれからこの家の人となって、よく台所を守っていかなくてはならないので、先ず、最初からこうするのが風習になっているのだと、後で母から教えて貰って初めて知った。
 花嫁さんは、床の間の上座に二枚重ねて置かれた大きな座布団に座らされてうつむいていた。横に並んで座った兄も、固くなって神妙に正座していた。
 

祝いの席に着いた人々が見守る中で三々九度盃が交わされ、その後は大酒盛りが夜明けまで続けられたそうであったが、途中から眠ってしまった私が、賑やかな大声に目覚めたは、近所のおじさんたちが庭先で、大丼になみなみと注がれたお酒を回し飲みして
 
   ここの座敷はめでたい座敷
           鶴と亀とが舞を舞う

と、みんなで大合唱をしてお開きになるところであった。
 兄は数え年で二十二歳、義姉は二十歳の若々しい夫婦であった。

村に電気がきた

村に電気がきた
 私が小学二年の春頃から、作業服を着た見慣れない男の人が三、四人であちこちの田圃や畑の中に、太くて真っ直ぐな柱を立てては黒い線を引っ張って、柱と柱をつないでいた。
 電気という明るい物が入るので、もうランプは必要がなくなるとの話であった。
 そのうち私の家でも主屋と離れの部屋に一個ずつ引いて貰った。離れは兄たちが寝起きしたり、勉強部屋でもあったが、また、煙草を保存しておく所でもあった。 

 その日の夕方、あたりが薄暗くなってきた時、パッと電球が明るくなり、十五燭光だったが部屋の隅々までよく見えた。ランプの明かりとは格段の違いだった。
 私は、「うわっ、電気がついた!」とはしゃいで、表へ出て東の家の前へ走って行って見ると、中の間の障子が明るくなっていた。川向こうの家々にも明かりが輝いて明るかった。
 電気はあの黒い線を通って、一軒一軒順番についてくるのかと思っていたら、一度にみんな一斉に明るくなるのが不思議で仕方がなかった。

葉煙草作りの総仕上げ

その一 葉煙草のし
 葉煙草栽培の農家では春蒔きの仕事が一段落すると、葉煙草のし(葉の皺を伸ばす作業)をして、専売局へ納付の準備をしなければならなかった。
 乾燥してしぼんだ葉は、乾かし過ぎるとぼろぼろに砕けてしまうので、適度に霧吹きで全体を湿らせるか、または一晩外の筵の上にひろげて夜露に当てて、全体が程よくしっとりとした感じになった時、挟み込んである縄から葉を外す。
 厚さ4センチ、巾50センチ、長さ1メートル程の重い板を作業台にして、この上に葉先を向こうに葉の元を手前にし、葉軸の中心から四方へ破かないように両手の指先を使って皺を伸ばし、よく伸ばせたら次の葉をこれに重ねて同じように伸ばす。一枚一枚次々と重ね、元の高さが一握りほどになれば、藁で束ねて結び、のし板の下に入れて重しをかけ、また、次の一枚から同じ作業を繰り返す。
 私も学校から帰ると毎日のように手伝うのが常であった。生(なま)の時ほどではないが、やはり手先が黒くなり、石鹸で洗わない限りいつまでも黒さと臭い、それに苦さが残っていた。父とは母たいてい夜の十時頃まで、ランプの灯りの下で作業を続けていた。
 伸ばして押しをした束をまた全部ほぐしながら、今度は形と色合いのほぼ同じ物どうしを再び重ねて束ねる最後の仕上げであるが、ランプの灯りでは、色合いがよくわからないので、これは昼間の作業であった。

=現在ではこれら面倒な作業から開放され、しぼんだままの葉を納付するようになったとのことである=

その二 明日はいよいよ専売局
 三好郡内の葉煙草は池田町の専売局へ納付することになっていた。納付の日時は予め通知があって、その日に間に合うように準備をするが、収穫した頃に、十二月には土葉(どば)、中葉(ちゅうば)、二月の納付期には本葉(ほんば)、三月末には残り全部と、三回に分けて行われていたように思う。
 きれいに仕上がった葉煙草の束を、四角いコモの上に互いに積み重ね、一定の目方になると上にもコモを当てて、縄でしばって荷作りをする。いつも十個以上はあった。
 明日の朝早く、大八車に積み込めばいいように、玄関近くの部屋にまとめ終わった父はホッとして、囲炉裏の前で一服しながら、
「さあ、明日はいよいよ専売局だ。ええ等級で売れるとええが…菊もよう手伝うてくれたきんのう。何ぞ、みやげを買うてこにゃなあ。何がええかなあ。」
私は学校で休み時間に、みんながゴム鞠をついて遊んでいるのを思い出して
「ほんならなあ、赤いゴム鞠がほしいなあ」と言うと、
「おおそうか、池田に売っとったら買うて来てやるわ」
私は寝床へ入ってからも、なんだかわくわくして直には寝付かれなかった。


 ざわざわと人声がするような気がして、目を覚ましてみると、もう父母と長兄は、大八車に荷作りをした葉煙草を積み込むところであった。夜はまだ明けやらず辺りがまだ暗いので、母が提灯の灯かりを高く上げて、荷積みの手元を照らしていた。
 川向こうの通路から荷車の音が聞こえ、提灯の火がゆれて見えた。兄が
「もう上馬路(かみうまじ)の方の人は行っきよるぜ」と言うと、父は
「そうじゃあのう。みんな早いのう」
そこへ東のおじさんが、
「おはよう。もうそろそろ出かけるかえ」と顔を出した。
「ええ、もうすぐ出かけるわえ。一緒にたのむわえ」
荷積みを終えた父は大八車の取っ手に提灯をぶら下げた。
長兄が車の後押し役で、いよいよ出発だ。
「ほんなら、気をつけて行ってなあ」と、母は提灯の火が遠くなるまで見送っていた。
ガランとなって散らかった家の中で、私はまだ眠い目をこすっていると、
「菊はまだ早いきに、もう一眠りしてもええぜ、風邪を引くといけんきんなあ」
「母さんは?」
「うん、お神様にお燈明をあげてからなあ。少しでも値よう買い上げてくれるように、拝んどかな、なあ」と言いながら、神棚のお水を取り替えて、お燈明ををあげて拝んでいた。
 この年はわりあい出来上がりもよく、よい値で引き取って貰えたので、赤いゴム鞠を買って来てくれ、もちろん、私は大喜びで、網に入った鞠をかばんと一緒に肩にかけ、学校の休み時間にはボール遊びに興じたものだった。
 当時を振り返りまだ、子どもだった私には、我が家の年収額など、知る由もなかったが、家族全員が一年がかりで力を合わせた労力に比べて、その報酬はあまりよくなかったのではないかと思う。
 神棚に燈明をあげ、どうぞよい値で買い取ってくれますようにと、必死の思いで手を合わせていた母の姿が今も記憶に新しい。