若くして逝った姉

若くして逝った姉

昭和八年の二月、旧正月の十六日は薮入りの日だった。
長兄は結婚後四年目になり、もう二人の女の子の父親だった。義姉は長女を歩かせ、次女をおんぶして井ノ久保の実家へ里帰りした。
母は孫二人が出かけて急に静かになった台所で、何かとご馳走を作りながら、泉の奥へ嫁いでいる自分の娘が子ども達を連れて、我が家へ里帰りして来るのを心待ちしていた。
姉は日も落ちようとする夕方頃に、やっと五人の子どもを連れて賑やかに入って来た。待ちかねた母は、「年一回の里帰りじゃないか。もっと早くからよこしてくれればええのに…」と姑に対しての愚痴をこぼしたが、姉は、「早く出ようと思っても何やかやと用事があってなあ」と淋しそうにほほ笑んだ。
上二人は女の子で、三人目が男の子、下二人が女の子で、末っ子は昨年生まれて今、ハイハイの練習中で、一番手の掛かる最中であった。私はお手玉をしたり、おはじき遊びをして久しぶりに楽しく遊んだ。
姉は末の子が生まれた後の肥立ちが悪く、ずっと体調を崩して元気がなく、顔色も悪かった。しかし、いつも周りの人に心配をかけまいと笑顔を絶やさない人柄の姉であった。
母は姉の体を心配して、二、三日子守りをしてやるから休んで、ゆっくりしていくようにすすめたが、上の子の学校もあるのでと、一晩だけ泊まって帰って行った。疲れた後姿を残して帰って行ったこの時が、姉の最後の里帰りとなってしまったのであった。
姉の家では、嫁はどんなに体調が悪い時でも、家族より早く起きて朝食の仕度から、牛の飼料を作り、夜は家族より遅くまで夜なべ仕事を済ませてから床につくのが習慣だったらしく、力尽きて姉が倒れたのは三月の終わり頃だったようだ。
四月に入って間もなくの朝早く、姉の姑が駆け込んできて、「サトがせこそう(苦しそう)だから直ぐに来て見てくれまいか」と言うことで、父母と兄は大急ぎで駆け出して行った。
一時間ほど経ってから、泣き腫らした顔で母はしょんぼり」として帰り、「菊江、サト姉さんは死んでしもた。お前も行ってお別れして来いよ。今日は学校も休め」
やっとそれだけ言った母は、台所の「おくど」の前にしゃがみ込み、声をころしてむせび泣いていた。
母がこんなに悲しそうに泣くのを見たのは生まれてはじめてのことであった。
私が生まれた時は既に父母の膝元を離れて、十七歳で嫁ぎ、きびしい姑や夫によく仕え、苦労が多かったことなど一言も口に出さず、いつも優しいほほ笑みを絶やさなかった姉。五人の子どもがさぞ心残りであったろうに。
数え年三十二歳の若さでこの世を去った姉を想う時、せつないものが胸いっぱいにこみ上げてくる。