冥福を祈って四国遍路へ

kikue85sai2006-03-31

冥福を祈って四国遍路へ
 昭和九年の四月、姉の一周忌を済ませた義兄は、私より一歳年下の小学六年生の長女(私にとっては姪)を連れて、妻の冥福を祈るために四国遍路に出るということで、母と私も同行することとなった。
 当時四国八十八ヶ所全部を歩いて巡るには二ヶ月を要したそうだが、春休みを利用しての遍路なので、香川県の十ヶ所を目標とした。
 春は巡礼の季節で、我が家から見える川向こうの通路には、毎日のように三々五々その姿を見かける頃であった。
 首には「奉納(おさめたてまつる)四国八十八ヶ所」と書いた札(ふだ)ばさみをかけ、弘法大師と修行を共にする意味の「同業二人(どうぎょうににん)」と記したあじろ笠と杖を持った巡礼姿で、四人は遍路の旅に出発した。



 まず最初は一番近い寺で、徳島県香川県の境をなす標高九一一メートルの山頂にある「雲辺寺(うんぺんじ)」の参拝からだった。
 約二時間の山道を登って着いた寺には、白装束の遍路さんが数人、一心にお経を唱えていた。母と義兄も十分間ほど、読経をした後、香川県への石ころの多い山道を下っては登る繰り返しで、次の寺へと急いだが、何という寺だったかは記憶していない。
 夕暮れ迫る頃、瀬戸内海に近い観音寺町に辿り着き、あらかじめ頼んでおいた義兄の親戚の家で第一夜をご厄介になったが、風呂から出たとき、どうしたことか足の力が抜けて、腰から下が棒のようにつっぱった感じで、立つこともできなくなっていた。
 姪も同様で二人は仕方なく、四つんばいで母と義兄の側へ行った。
母は心配して、「今日は歩きすぎたんじゃないかえ。子どもには無理だったよ」
 義兄は「そうだなあ。ざっと八里は歩いたから…それもほとんど山道だったからなあ」「八里も歩いたんか。そんなら足が痛くなる筈だよ」
「だけど、あまりゆっくり歩くと、野宿せにゃならなくなるしなあ。民家がない所ばっかしだったきんなあ」
 母は私が歩けないのを心配して、
「明日はどうだろうなあ」「明日からはもう町の中の寺が多いから、今日のようなことはないわえ」
 こんな会話を聞きながら、私はもうくたくたで、明日もまた歩くのかと思うと、四つんばいではみっともないし、どうしようかなどと思いながら、いつしかぐっすり眠ってしまった。
 翌朝、母にゆり動かされ、思わずはっと起き上がったが、不思議と足の痛みは取れて、部屋の中を歩いてみたが、何の変わりもないので、
「不思議やなあ。足の痛かったのが治った」と言うと、姪も起き出して来て
「あら、私も歩けるぜえ」
 母は「ありがたいなあ、お大師さまのお蔭だよ。よかった。ほんによかった。お前たち、おんぶして歩くわけにゃいかんし、どうしたもんかと思うとったんじゃ。ほんまによかった。さあ、早く出かける支度をしなはれ」
 遍路姿の旅支度のできた私たちを送り出しながら、
「今度は精進料理にしたけど(遍路さんは魚類は食べないことになっていた)次に来る時は美味しい魚をうんとご馳走するきんなあ。それじゃあ、よう気をつけてなあ。またおいでなはれよ、待っとるきんなあ」
 人のいいおじさんとおばさんに見送られて四人は元気に次の札所へと出発した。
 二日目からはゆっくりと街並みを眺めたり、瀬戸内海の潮風に吹かれながら、島々の間を縫うように進む船の姿を見下ろしたりしながら歩いた。
 しかし、乗り物には一切乗らず、歩きばかりなので、夕方になるとやっぱり足の疲れが出るので、早めに町の宿屋に泊まった。
 札所になっている寺の境内には、お接待といってお米、菓子、お茶等を持った団体のおばさんたちが待っていて、遍路にお布施をしてくださるところが多かったので、子供心に嬉しく楽しみの一つであった。
 また、夕方近く歩いていると、家の庭先に立って、
「お遍路はん、どうぞお泊まり下さりませ、お接待を致します」と、普通の民家で一夜の宿を提供してくださる風習があった。これは、遍路をもてなすことにより、弘法大師と共に先祖への供養になるということのようであった。私たちもご好意に甘えて、二回ほど泊めていただき手厚いもてなしを受けたことを覚えている。
 巡拝したお寺と、お接待を受けた人たちには首にかけた札(ふだ)ばさみからお札を一枚ずつ出して差し上げるので、母と二人で五十枚ずつ用意していったお札も残り少なくなっていた。
 こうして一週間の遍路の旅は無事終わった。
 寺でらの仏前で一心にお経を唱えることにより娘を亡くした悲しみもだんだんと薄らいできたのか、巡拝から帰った母は、「いつまで悲しんでいても、サトはもう帰っては来ない。諦めるよりほかしようがないんじゃなあ」「そうじゃよ。それが分かっただけでも、お遍路はんに行って来てよかったよ」
 囲炉裏ばたで父と語る母も、だんだんと元気を取り戻してきたようであった。