村の四季 芋掘り 麦蒔き

芋掘り
 祭りの興奮も去って、朝夕肌寒さを覚えはじめる頃になると、山の落葉樹は紅や黄色にそれぞれ衣替えして、松や杉、桧など、交互に色どられ、秋が次第に深まってくる。
 畑に取り残されていた煙草の軸も取り払われて、次は芋掘りの季節である。
 あの真夏の暑い日に蔓返しをした蔓はもう三メートル以上に伸びて葉は黄色味を帯び、地中の芋が大きく成長していることを表している。蔓は根元に近い部分を二十センチ程残して切り取られ、少し乾燥したのを持ち帰り、冬の間の貴重な牛の飼料となる。
 芋掘りは父が牛を使って行われた。牛につけた鋤で土と共に地中の芋を掘り起こして行き、後から家族全員で芋を収穫して行く。一本の根から五、六個もの大小のさつま芋が連なって出てくるのは楽しい喜びであった。
 掘り出した芋は夜露にあたると皮が黒くなって傷むので、その日のうちに家まで運んでしまわねばならず、これを「ふご」に入れて自宅まで急な坂道を、前後十五キログラムぐらいずつ天秤棒で担ぐ芋の重さは、肩にこたえたことであろう。父と兄たちはドイヤリから一日に三往復くらいして、運んでいたようであった。
 運んだ芋は一旦納屋の土間に積まれ、全部の収穫が終わると、大部分は保存用として母家の地下に造ってある芋坪に、籾殻を間に入れながら収納する。そして、これから一年間の副食物でありまた、おやつとしての役目を果たす我が家の大切な貯蔵食品であった。
 また、畑で掘り起こす時に傷がついた芋は、貯蔵中に腐るので直ぐに茹でて薄く切り、軒下にぶら下げて乾燥芋として保存するのであった。

「ふご」藁で手編みしたもので収穫した物を入れて運ぶ


麦蒔き
 稲を刈り取った後の田圃は、牛を使って土を掘り返して耕し、排水をよくする為に畝を高くして麦を蒔く。どの家の田も二毛作であった。畑のほうも煙草をはじめ、さつま芋、蕎麦、茄子等の野菜類を収穫した後は、全部きれいに耕して、十一月中旬頃までには、村中が一家総動員で麦蒔きを終わらせていた。
 この時期に家族が病気や怪我などで畑に出られないことがあると、その家の畑を見ると一目でそれとわかる。そのような時は、自家の麦蒔きが終わると直ぐに近所の人たちが行って、寒さが来ない前に作業を済ませてしまうのが、村の人たちの人情でもあった。
 麦は当時の農家にとって一番大切な主食で、時期を逸せず蒔かなければならなかった。小学校でも五、六年生以上は、農繁期中の一週間くらい、授業を午前中だけで打ち切り、家庭の手伝いをさせることになっていた。また、その期間中、四、五年生で小さい弟妹のいる子は学校へ連れて来て子守りをしながら勉強してもいいことになっていた。もちろん託児所や幼稚園もない時代であった。
 小春日和の日曜日など、私は手拭いで姉さんかむりをして襷をかけ、おしゃまな恰好をして、母の後から体よりも大きな鍬を引きずるようにして、畑の土ならしをしていると、通りかかった隣りのおばさんに「どこのこんまい(小さな)嫁はんかと思うたら、菊さんだったんじゃなあ」などと、からかわれた。