村の四季  葉煙草作り2

その三 自然の恵みの水
 ひと休みすると、いよいよ煙草の虫取りが始まる。全員が家から持ってきた古着のシャツとズボンに着替え、手拭で頬かむりをして古い麦わら帽子をかむり、煙草の脂(やに)
がついてもいいような恰好となる。まるで案山子(かかし)そっくりの形をして虫取りに熱中する。
 だいぶ太陽が昇って来た頃、「もう、十時近いじゃろ。お茶沸かそうか」一区切りしたところで母が言う。「腹へったなあ」兄のほうからも声がかかったので、「母はんは水を汲んで来るきんなあ。菊江はお茶葉を取っといてくれや」
 母は小屋の中から煙で真っ黒くなった二升入りの大きなやかんを提げて坂を下りて行った。泉へ水を汲みに行ったのだが、この泉は隣の家の畑の石垣の下から、地下水がコンコンと流れ出している実に美味しい水で、夏のどんなに強い日照りの時でも、涸れたことのないあり難い泉である。「ドイヤリ」の畑に来る人たちの共同飲料水で、母は身体の調子がよくない時など、この水で沸かしたお茶を飲むと、食欲が出ると言うほどであった。
 母が水を汲みに行っている間に私は、畑の縁(ふち)に植えてある茶の木から、柔らかそうな新芽のついた枝を三、四本折って母の帰りを待つ。重たそうにやかんを提げて小屋まで上がって来た母は、石を並べて作った「おくど」で枯木を燃やしてお湯を沸かす。その燃えている火の中へ、茶の枝をさっと入れ、全体をまわしながら燻(いぶ)し、葉がしんなりすると、沸騰してきた湯の中へそのまま入れる。即席の香り高い茶の湯の出来上がりである。甘い香りでちょっとほろ苦く、美しい緑色をした美味しい味は、今も忘れられない。
 また、父と長兄は箸作りが上手であった。雑木の中からグミの木等、毒でない細くて真っ直ぐな木の枝を選んで、指で握るところだけは皮を残し、あとは皮をくるっとむいて、先を丸く削り木の香りも高い即席の箸を人数分だけ、あっという間に作り上げる。
 家族六人が、思い思いに腰を下ろし、タクアンの音をパリパリひびかせながら、十時の第一回目の昼食をお腹一杯食べた。


その四 昼食は二回
 朝食が早い上に農家は重労働なので、どこの家でも食事は一日四回摂っていた。従って昼食は休息を兼ねて、十時と午後二時ごろから三時にかけての二回なので、母の弁当作りはたいへんだった。家族六人分だから、二升炊きの釜で炊いたご飯も、朝食と昼の弁当を作るともう終わりになっていた。
 さて午後はさつまいもの蔓返しと草取りであった。煙草は連作を嫌うので、今年さつまいもを作っている畑が、来年は煙草畑となる。
 母と兄二人が蔓返しをやることになった。長さ二メートル近く伸びて葉が茂り、絡み合った芋蔓を右か左か方向を決めて、根を動かさないようにして、雑草を取りながら一株一株進んでいくのだが、腰が痛くなってなかなかたいへんな作業である。わたしは少し手伝っただけでくたびれて、少し離れた場所で蟻地獄の巣を見つけたりして遊んだ。
父と長兄は石垣を埋めつくすように生えた雑草を刈り取る作業をはじめた。これは大きな束にまとめて家に持ち帰り、牛の餌にするが、何よりも好物のようであった。
「朝は朝星いただいて、夜は夜星をいただいて…」、母は時折こんな言葉をつぶやいていたが、朝はまだ星の輝いている時刻から外に出て働き、夜は一番星が出る頃まで働く。
働いて、働いて、大人も子どもも一日中働くのが、当時の農民だった。


その五 天候との戦い
 八月も半ばとなり旧盆が近づく頃、葉煙草の取入れがはじまる。一番下の土に近い葉を「土(ど)葉(ば)」といって、これはオレンジ色がかった黄色になってくるともぎ取り、葉があまり大きくないので私にも簡単に取れたが、上の方の「本葉」になると、巾三十センチから長さ四十センチくらいの大きさになるので、私には無理だった。
 高さ一メートル五十センチ以上もある葉煙草の茂る中へ入り、腰を曲げて右手でもぎ取り、左脇に抱え込んでいく作業は、大人にとっても真夏の太陽の下で大変なエネルギーの消耗であった。しかも、葉を傷つけないように気配りも大切だった。
 もぎ取った葉は自宅へ持ち帰り、三メートル程の縄に一枚ずつ軸をはさみ込み、これを庭の柱に両端を結んで日光に干すのである。


 葉煙草を縄にはさんで天日で乾燥させる 


 私は葉煙草を収穫した日は、はさみ役を手伝った。軒下の日陰に筵(むしろ)を敷き、先に取って来た分から順番にはさんでいくのだが、両手と前掛けが煙草の脂でネバネバになり真っ黒くなった。
 私の村は夏になると夕立が多い所であったような気がする。つい先程までカンカン照りだった空が、急に曇ってきたと思うとゴロゴロ雷が鳴り出し、大粒の雨がバラバラと落ちてくる。畑にいた大人たちは、もいだ葉煙草を抱えて一目散に駆け戻り、庭に干してある煙草を軒下に押し入れる。子どもの私には手が届かないので、三またで押し入れようとしたがなかなかうまくいかなかった。軒下に入りきれない分にはテントを被せる。時には土地が抜けるのではないかと思われるぐらい、ドシャ降りの夕立が、夏の間に何回かあった。
葉煙草は乾燥中に一度でも雨に会うと、色があせて艶がなくなり、仕上がりが悪くなる。夕立の雨だけならまだよいが、二、三日も続けて降られると、黴が生えだすので一番困ることであった。
父はよく「七人塚の山に雲がかかると夕立が来るから気をつけろ」と言っていた。七人塚は私の家の裏山に続く西の方の山だが、いつか私が一人で留守番をして、他の家族の人は「ドイヤリ」の畑に葉煙草の取り入れに行っていた時、庭には煙草がいっぱい干してあった。午前中はよく晴れて暑い日だったが、急に曇り出した。困ったなと思っている時、兄二人が「ドイヤリ」から葉煙草を「ふご」にいっぱい入れたのを担いで、大急ぎで帰り、大声で「夕立が来るぞ、早く煙草を入れろ」と、干してあった煙草を軒下へ片寄せた。終わったところへ雷と大雨が同時に来た。「ああ、濡らさなくてよかった」と、ほっとしたことであった。
父が「ドイヤリ」から七人塚にかかった雲を見て、「早く帰って煙草を入れろ」とせきたてて、兄二人を帰したのがよかったのだった。
また、父は「夕方になって、川面に雑魚がはねあがっている時は、翌日大抵雨になるから用心しろ」と言っていた。
煙草作りの人たちにとって、毎日が天候との戦いでもあった。


その六 家の中も煙草でいっぱい
 夏休みが終わる頃になると、葉煙草も下から上へと順々にもぎ取られ、最上の天葉までほとんど収穫が終わる。畑には軸だけが裸のようになって林立した姿で残されていた。
煙草栽培の農家では、主屋(おもや)から少し離れた場所に、乾燥専用の家を建ててあった。
三坪ほどの広さで、中央に畳一枚くらいの四角い炉を掘って、ここで炭火を起こし、屋外で天日により半乾きとなったものを、最後の仕上げをする場所である。
 縄にはさまったままの葉煙草を二人がかりで屋外から運び、梯子(はしご)を使って壁の両側に取り付けた棒に縄の両端を結びつけ、天井の高い所から下へ順に三重くらい、すき間なく吊るす。
 炭火は途中で消えないように継ぎ足しながら、葉の乾燥具合を観察しつつ管理するのはなかなか経験が必要で、ここで失敗すると今まで苦労して手がけてきたことが、すべて水の泡となり、収入に大きな影響を及ぼすので、父も一際(ひときわ)神経を使っていたようであった。
 また、高温になり過ぎて、火災を起こした家もたまたまあったので、主屋への類焼を避けるため、乾燥部屋を孤立して建てたのだと思う。
 ちょっと黄色味を帯びたコハク色に乾燥できたのが、最高の品質のようであったが、なかなか全部そうなるとは限らず、むつかしいようであった。
 出来上がったものは両端の結び目を外し、たぐり寄せ、全体の容積も小さくなっているので、大切に主屋の天井裏とか湿気のない場所で保存し、屋外の半乾きの物を乾燥部屋へ運ぶということを何回も繰り返し、家の中も外も煙草の葉でいっぱいと言う感じで、人間が煙草の中に埋まっているようなものであった。