想い出のふる里3

あこがれの一年生
 大正天皇崩御された翌年の昭和二年、私はもうすぐ小学校へ上がれるので、胸ときめかせてその日を待っていた。
いよいよ四月六日は入学式である。仕立て下ろしたばかりの花模様の袷(あわせ)と羽織の上下対の晴れ着を着せて貰い、赤い鼻緒のあさうら(畳表のついた草履)を履いて大張りきり表へ出た。牛屋の前で飼葉を切っていた父に「お父っつあん、花のついた着物、これ見て!」と両手を奴凧のように広げて見せた。
「おお、ええのう。早う行ってこいや」手を止めて振り向いた父はニコニコ歯を出して、笑っていた。
「ほんなら父っつあん、行ってくるきんなあ」と出かける母は、ちょっとおめかしをしていたようであった。
 四キロ近くある道程を母に連れられて学校へ急いだ。この時から私は佐馬地村立馬路尋常高等小学校の一年生となった。


先生は一人二役
 この学校では一学年が大体二十名前後だったので、一年生と二年生、三年生と四年生、五年生と六年生、高等科一年生と二年生がそれぞれ同じ教室で、一人の先生が二つの学年を教えていた。受け持ちは女のA先生だった。
 一人二役、時には三役もこなさなくてはならない。今思っても当時の先生はさぞたいへんだったことと思う。
 一年生は二十五名くらいだったが、図画や書き方の時間には、二年生の方は大抵国語とか算術で、私にとってすべてが珍しく楽しかった。


昭和2年〜10年、小学校入学当時の文房具。石板・石筆(ろう石)・消し物


 日が経つにつれだんだんとまわりの子たちと仲良く遊ぶようになってきたが、同じ机に並んでいる女の子のMさんが私に意地悪をするようになってきた。
 図工の時間に、クレヨンを忘れてきたから貸してと言い、画用紙も半分くれと言う。私は、一枚しか持ってないから駄目と言うと、半分でいいからと無理に引っ張って破いてしまう。
 また、書き方(習字)の時間になると、ガタガタと机をゆさぶって書かせなくする。まだ慣れない私は、先生にも言えず、しくしく涙を流して我慢していた。
 ある朝Mは「今日は出席の名前を呼ばれても返事せんとれよ。返事をしたらつねるきんな」と私をおどした。だんだんと私の名前を呼ばれる番が近づいた時、Mはピタッと私の体に近づき、私のおしりを何時でもつねれるように用意をした。
 先生が「大西菊江さん」と呼んだが私は声を出せなかった。二回三回と繰り返し呼んで下さったが、私はだまったまま、今にも泣き出しそうなのをじっと我慢してうつむいていた。
 畑仕事に忙しい母は、私がなんとなく浮かない顔をして学校から帰る様子には気が付かなかったらしいが、その日の放課後、高等科一年生だった兄が私の受け持ちの先生に呼ばれ、「菊江さんは名前を呼んでも返事をしなくなったのだが、どうしてだろう」と聞かれたそうで、兄がそのことを母に話した。
 母はびっくりして「まあ、菊江、先生に名前を呼ばれても返事をせなんだんか、どうしてじやぁ」。
 その時私は、今まで誰にも言わなかった思いが一度に爆発して「だって並んでいるMが…」と言い始めたが涙が溢れ大声で泣き出した。あまり泣いたので止まらなくなり、いつまでも泣きじゃくっていた。
 事情を知ると母は、机の席を替えて貰ったらどうかと、兄にそのように先生に頼んでみるように言った。先生から兄が伺った話では「Mさんのお母さんは、長い病気の末に亡くなられ、今はお父さんと兄さんの三人で暮らす淋しい家庭で、この頃少し荒れている様子があるので、本人に注意はしますが、席替えの方は、もうすぐ夏休みで、一学期も終わる事だから、二学期になって替えることにします」ということになった。
 
 =後日、私が徳島で看護婦をしていた頃、帰郷した時バス停で「菊江はん」と声をかけられ振り返ると、思いがけなくMさんで、十六歳でお嫁に行き、子どもも生まれ幸せに暮らしているとのことで、意外さに驚いたのを思い出す。