想い出のふる里2

囲炉裏が団欒の中心
 私の家では台所の土間の横に「かまど」があって、これを「おくど」といい、夏の暑い間はそこで煮炊きをするので、囲炉裏はその上に板をのせて居間の一部として使い、寒くなるまで使わずに休ませ、十一月から翌年の四月頃までが囲炉裏の活躍する季節であった。
 軒下にうず高く積み上げてある薪を持って来て、ドンドン燃すのでよく暖まるが、その燻りで家中が真っ黒くなり、柱など黒光りしているが、そんなことは当たり前で、家族は四方から囲炉裏を囲み、食事もここで済ませる一家団欒の中心であった。
 また、囲炉裏は玄関の土間から上がってすぐのところに作ってあったので、近所の人たちが来ると、すぐに仲間入りをして、世間話がはずんだものだった。おもしろいことに、おのずと各自の座る場所もきまっていた。
   
竈(かまど・おくど)


  
 囲炉裏(昭和10年頃まで使用していた)


 父は野良仕事から帰って、牛に飼料をやると裏の井戸端で手足を洗い、囲炉裏の前の自分の席で大きなあぐらをかく。そしておもむろに腰から煙管を抜いて、きざみタバコをつめ、口にくわえてから火箸で囲炉裏の中の小さい火をつまみ、煙管の先のタバコに近づけ「スパッ」と一吸いすると、タバコは真っ赤になって、煙は煙管の中を通って父の口に入り、大きな鼻の穴からスウーと二本の白い煙となって出てくる。次は煙管の火がまだ消えないうちに、左の掌にポンと軽く落としてから、次のキザミを手早く煙管の先に詰め、掌の火種で器用に火をつけ「スパッ」と吸う。そして、「ハア」と大きな呼吸をして、肩のこりをほぐすように首を大きく一廻りさせてから、いよいよ晩酌が始まる。四、五歳くらいだった私は、待ってましたとばかりに父の大きなあぐらの中へチョコンと座り、囲炉裏の火に小さな両足を伸ばして温めながら、家族の話を聞いているのが常であった。

 
普段用の胴乱(どうらん)と煙管(キセル)


外出用の胴乱(どうらん)と煙管(キセル)


東京から叔父が来た
 大正十五年(一九二六年)の旧盆の頃、むせ返るように暑い日だった。白いカンカン帽子を被り、白い洋服を着て黒いトランク提げた男の人が来た。
 お墓参りを兼ねて、病気中の伯母を見舞うため十二年ぶりに東京から帰郷して来た善助叔父(母の弟)だった。もちろん私は初めての出会いで、東京に叔父がいたことも今まで知らなかった。言葉遣いも違うし、私はなんとなく人見知りして、なるべく隠れるようにしていたように思う。
 母は明治十一年生まれ、姉二人、弟一人の四人きょうだいで、一番上の姉(私が生まれた時菊枝と名前をつけるよう言ってくれた人)は嫁ぎ先で夫に死に別れ、子どもが生まれなかった事で、実家である私の家へ帰っていたが、病気で半身不随となり、母がずっと看病していた。
 叔父は一人息子で、母より三つ年下だが、農家の後継ぎをして生涯を田舎で暮らすことを嫌い、二十才前後の頃家を出て、東京で生活するようになり、母は仕方なく家を継がなくてはならなくなったので、水の久保という所の農家から婿養子を迎えたそうで、これが私の父である。
 私が一番嬉しかったのは、叔父が夏の洋服(ワンピース)をお土産に下さったことで、生まれてから初めて洋服を手にし、思わず叔父に「ありがとう」と頭を下げた。
母はちょっと私の体に合わせてみたが、膝の下まであって大分大きいようであったが、「よそ行きができてよかったなあ」と大事そうにタンスの引き出しへしまった。
 近所の子ども達もまだその頃は、洋服を着ている子がいなかったので、これは出かける時のよそ行き用の服となり、翌年小学校へ入学してから秋の運動会にも、この服で駆けっこやおゆうぎ等をしたことを覚えている。
 叔父が東京へ帰るという日の前日。その日も多分暑かったのだろう叔父は、白い下帯だけの姿(なぜかこの姿をよく覚えている)で、病気の伯母を縁側に座らせて、肩に白い布をかけ、長い髪の毛を何度も何度もとかしていた。そして叔父は、「姉さんにもしものことがあっても、もう東京から帰って来られないと思うので、最後の思い出に髪の毛を落とさせて貰うよ」
そう言いながら母から鋏を受け取り、元結で束ねた襟元からバサッと切り落とし、鋏を持ったままの腕で涙をぬぐっていた。
 後ろの方でじっと見ていた私は、「男の大人が何で泣くんじゃろか」と不思議に思ったことを覚えている。髪を切られた伯母は、ただ、ニコニコしていたように思う。
 この叔父が十六年後、私が義父(ちち)と呼ぶ人になろうとは、幼い日の私が夢にも思っていなかったのは当然であった。
 また、伯母はその年の秋の終わり頃、母がお昼のご飯を食べさせて、最後の一匙をおいしそうに喉を鳴らせて飲み込んだ後、母に見守られながら安らかにこの世を去った。